交響曲第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付」第四楽章

皆さんこんにちわ。

AYUです!

最近、クラシック音楽にはまっています。

皆さんは、クラシック音楽は好きですか?

あまり聞いたことがない方も聞いてみるといいかもしれません。

 

今回は交響曲第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付」大四楽章について書きたいと思います。

 

 

1.作者

この交響曲を作ったのは、みんなも知っているルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって作られました。

ベートーヴェンは1770年~1827年の間に生きていて、音楽の聖人「楽聖」と呼ばれています。

主な作品は、ピアノソナタ「悲愴」「月光」「熱情」等32曲、ヴァイオリンソナタ10曲、ピアノ協奏曲「皇帝」等5曲、歌劇「フィデリオ」、ピアノ三重奏曲「大公」等7曲、弦楽四重奏曲など数多くの名曲を作りました。

 

2.時代

ベートーヴェンは古典派時代に活躍した音楽家です。

古典派時代は、楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、形式美を重視したソナタ形式へと発展することとなります。また、機能和声法が確立され、中世より続いた教会旋法に代わり、長調短調といった調性が確立された。

 

古典派時代の特徴

  1. 絶対主義体制の崩壊→音楽家の自立 楽譜の出版(印刷技術の向上)
  2. 形式美の尊重(単調・明快・合理的)  ・啓蒙思想の影響
  3. ポリフォニー音楽からホモフォニー音楽へ 和声音楽の発達

 

古典派音楽の盛期はバロック音楽とロマン派音楽の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。

古典派の潮流は1730年頃にフランスのギャラント様式から始まるが、バロック音楽を代表するヨハン・ゼバスティアン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはまだ存命、活動中であった。

また、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが、ロマン派とされるフランツ・シューベルトやカール・マリア・フォン・ヴェーバーもほぼ同じ頃に死去している。

盛期古典派音楽のうちウィーンを中心に活動した作曲家は「ウィーン古典派」の名前でも知られている。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン等が有名である。

ハイドンモーツァルトは、前古典派や古典派初期における音楽様式の発展の中心であったイタリアや、マンハイム楽派、ベルリン楽派などの各地の様式の影響を吸収しつつ、それらを集大成した。それを土台にベートーヴェンがさらに豊かにその様式を発展させた。彼ら自身や人脈の活躍、作品の流通を通じて、その様式は欧州各地に影響を与えた。

 

3.ベートーヴェンについて

1770年12月16日ごろ、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現・ドイツ領)のボンにおいて、父・ヨハンと、宮廷料理人の娘である母・マリア・マグダレーナの長男として生まれる。

ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(のちに楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父・ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。

ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。

1774年ごろよりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。

1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳のときよりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母・マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。

母はまもなく死没し(肺結核)、その後はアルコール依存症となり失職した父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなくピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化、28歳のころには最高度難聴者となる。

楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えたが、彼自身の芸術への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。

その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳ごろ(晩年の約15年)には全聾[要出典]となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。

加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタ弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。

病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。

この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

 

4.交響曲第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付」第四楽章

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125は、ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲

ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。

ベートーヴェン自身は表題をつけなかったが、副題として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。

また日本では親しみを込めて「第九」(だいく)とも呼ばれる。

第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられる。

第4楽章の主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。

原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中のあらゆる言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。

古典派の以前の音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来たるべきロマン派音楽の時代の道標となった記念碑的な大作である。

第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されているほか、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されている。

このほか、コソボ共和国の暫定国歌として制定、ローデシアの国歌としても制定されていた。

ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年にユネスコの『ユネスコ記憶遺産』リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年にサザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている。

 

 

皆さん興味を持ってくれましたか?

私は、興味を持ったのが最近でまだまだにわかなので、もっと学んでみたいです。

クラシック音楽は作業用や、勉強ようのBGMとしても使えますので、ぜひ聞いてください。

 

~AYU~